北米のマンガ事情第27回 「アメリカにおける手塚治虫作品の受容の変遷-もうひとつの「手塚神話」の形成」‐前編‐

 

文化輸出品としてのマンガ-北米のマンガ事情 第27回
 「アメリカにおける手塚治虫作品の受容の変遷-もうひとつの「手塚神話」の形成」‐前編‐

椎名 ゆかり
アメリカの大学院でポピュラー・カルチャーを学び帰国後、マンガを専門とする出版エージェント業やアニメ、マンガ関連の翻訳者他、海外マンガを紹介する様々な仕事を行ってきた。
翻訳マンガ:『ファン・ホーム』『メガトーキョー』『ブラック・ホール』『デイトリッパー』他
ブログ:「英語で!アニメ・マンガ」 http://d.hatena.ne.jp/ceena/

<手塚治虫と海外>

1Astroboy_Essays(手塚と海外)昨年の12月、東京都豊島区主催のイベント「東京アニメ・マンガ カーニバル in としま」(1)が開かれ、その中で手塚治虫作品の海外版の(紙の)本に関する展示「世界で読まれる手塚治虫作品」と、トークイベント「世界へ広がる手塚治虫 -手塚治虫の元マネージャー 松谷孝征氏を招いて-」(2)が行われた。これは、筆者が現在携わっている文化庁のプロジェクト「日本マンガの海外出版状況調査 -手塚治虫・海外出版リスト」(3)制作プロジェクトの成果発表の意味合いを持つものである。

展示では、世界の20を越える国と地域で出版された手塚作品の本の実物をいくつかのテーマに沿って展示。トークイベントでは、元マネージャーで現手塚プロの社長の松谷孝征氏に「手塚と海外」をテーマにお話いただいた。展示は小さいブースで行われたものの好評を得て、イベントも告知が1週間前という遅さであったにもかかわらず、会場の定員を越える人数の参加があり、松谷社長の軽快なトークもあって大変盛り上がった。

日本国内における手塚治虫の「マンガの神様」としての名声は、その死後四半世紀を経てもまったく衰えていない。ただし手塚がずっと第一線で仕事をしていたと言っても、デビュー時からずっと「マンガの神様」として神格化されていたわけでもなければ、一貫して高い人気を維持し続けていたわけでもなかった(4)。
しかし、近年でも『ヤングブラック・ジャック』『ブラック・ジャック制作秘話~手塚治虫の仕事場から~』(共に、秋田書店)等の手塚自身や作品に関係するマンガやキャラクター商品が次々と発売され、様々な展示やイベントが行われる等、手塚は戦後日本を代表するマンガ家として現在でも人々に愛され続けている。

今回のコラムでは、上記の「手塚治虫・海外出版リスト」を参考にしながら、アメリカにおける手塚治虫に対する受容の変化について考えたいと思う。

手塚の友人であり、通訳をつとめ作品の翻訳も行ったフレデリック・ショット(Fredrik.L.Schodt)氏が2007年にアメリカで出した「鉄腕アトム」についての著作『ジ・アストロ・ボーイ・エッセイズ(The Astro Boy Essays: Osamu Tezuka, Mighty Atom, Manga/Anime Revolution)』の1節を挙げてみよう(5)。(以下、筆者による翻訳)

手塚は生前、日本の外で認められることはほぼなかった。近年、日本の大衆文化、特にマンガやアニメの新たな人気がゴジラのような勢いで世界を席巻するようになって初めて、手塚治虫の名前が英語圏のメインストリームの意識にゆっくりと浸透し始めてきた。

海外で『アストロ・ボーイ(Astro Boy)』として知られる手塚のTVシリーズ『鉄腕アトム』は、60年代中盤に北米でかなり人気を博し、一時的に他の日本のアニメーションへの扉を開いたものの、手塚の名が一般に知られることはなかった。

90年代後半、そして新世紀の初頭になり、手塚の作品の翻訳版が英語で出るようになったが、今でもまだマンガファン以外ほとんどの人は、手塚やその作品について聞いたことがない、と言って過言ではないだろう。

上記の「手塚は生前、日本の外で認められることはほぼなかった」という1文は、アジアの一部の地域には当てはまらないかもしれない。しかし、アメリカではショット氏の言う「ゆっくりと浸透し始めてきた」を証明するかのように、手塚の作品が2000年代後半から続々と出版されるようになった。その経緯を見てみよう。

<アメリカでの『鉄腕アトム』アニメ>

そもそも、手塚治虫と海外のつながりは深い。手塚がマンガ、アニメーションに限らず数々の海外の文化から影響を受けてきたことはこれまでも至るところで語られてきた。そして、手塚の手による国産第1号の30分TVアニメ番組『鉄腕アトム』が、日本放送開始から間を置かずアメリカで放送されていたことを知る人も多いだろう。

日本で『鉄腕アトム』の放送が始まったのは1963年1月。同年の9月には、アメリカのNBC系列のローカルTV局で放送が始まった。『鉄腕アトム』は、日本で毎週放送された初の30分番組のTVアニメ・シリーズというだけでなく、アメリカのテレビ局で放送された初めての日本産TV番組でもあった。ちなみに『アトム』が放送開始された1963年は、日本においてアメリカのテレビ番組が地上波で過去一番多く放送されていた時期(1週間に54番組)に当たる(6)。

アメリカでの『鉄腕アトム』テレビ放映は、手塚にとって「足が地につかないくらいうれしかった」と言う(7)。手塚の期待に反して3大ネットワークの全国放送ではなく地方のローカル局での放送であった上に、数話がまるごと削られ、いくつもの改変が加えられる等、番組に適用されたアメリカ側の放送基準は手塚を困惑させたが、『鉄腕アトム』、英名『アストロ・ボーイ(Astro Boy)』は、高い視聴率を稼ぎ、ライセンスを購入したNBCの子会社であるNBCエンタープライゼズ(NBC Enterprises)を十分に満足させるものであった。

『アストロ・ボーイ』が放映された頃は、アメリカで娯楽の中心が映画からテレビへ移行した時期にあたる。第二次大戦直後の1940年代の中盤と1960年代初頭を比較すると映画を見にいく人の数が半分以下となり、『アストロ・ボーイ』放映の前年1962年にはテレビの所有世帯が全体の90%を超えた(8)。多くのテレビ局が設立されて放映する番組が必要となった上に、大人向けであれ子供向けであれ、テレビ向けアニメーションへの需要が急激に伸び始めていた。

テレビ向けのアニメーションの制作は1950年代前半から始まり、その後続々と作られていたが、1960年から放映が開始された大人向けアニメーション番組『原始家族フリントストーン(または『強妻天国』もしくは『ソーラ、来た来た』、原題:『The Flintstones』)の大成功が、アニメーション番組の地位と需要を押し上げていたところだった。日本産の『アストロ・ボーイ』がアメリカのテレビ局に購入されたのには、テレビというメディアの躍進とそれによる番組需要の急増に加え、アニメーション番組に対する視聴者の意識の変化という背景があったのである。

これは90年代、ケーブルTVチャンネルが増加し時間枠を埋めるために多くの番組が必要とされた結果、日本のアニメ番組が購入された経緯と一部(あくまで一部だが)重なる。そして、90年代『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』等の人気シリーズが起爆剤にもなって、その後の日本産アニメ人気を支えていくように、60年代に放映された『アストロ・ボーイ』の成功は、『アストロ・ボーイ』に続く他の日本のTVアニメ、例えば、『エイトマン』『鉄人28号』『宇宙少年ソラン』等が次々とアメリカで放映されるきっかけになった。(『アストロ・ボーイ』後5、6年経つと、アメリカにおいては一時期日本からのアニメ番組の輸入が途絶える。)

そして、何十年も経って業界に世代交代が起こり、『アストロ・ボーイ』をテレビで見て育った世代が、日本のアニメやマンガの輸入に大きな役割を果たしていくようになる。日本アニメ放送枠を作った大手ケーブルTVカトゥーン・ネットワーク、白黒の『アストロ・ボーイ』(60年代版)DVDセットを出した販売会社ライト・スタッフ・インターナショナル(Right Stuff International)、そして手塚の『鉄腕アトム』に加え他の日本のマンガも出版するダーク・ホース(Dark Horse)社のいずれも、子供の頃『アストロ・ボーイ』を見て育ったというファンが幹部にいたという。

アメリカで日本のアニメやマンガへの親和性を高める種を蒔き、後に日本のアニメやマンガをアメリカで売り出そうと考えるファンを多く生み出したという点だけ見ても、TVアニメ『鉄腕アトム』(『アストロ・ボーイ』)がアメリカにおける日本の大衆文化の受容において果たした役割は大きい。

しかし、それでも残念なことに、『アストロ・ボーイ』の生みの親として、手塚の名がアメリカで一般に知られるようにはならなかった。手塚がのちに自伝『ぼくはマンガ家』(9)で「なによりも自慢したかったのは、その番組のクレジット・タイトルに、虫プロダクションやスタッフやぼくの名が、はっきり出ることであった」と述べていたように、クレジットに名前が入っていたにもかかわらず、である。

『アストロ・ボーイ』のローカライズを担当したフレッド・ラッドによると、『アストロ・ボーイ』が日本製だということは、NBCにとって「否定はしないが、大っぴらに触れまわるのを避けたい」ことだった。その理由は、第一に「日本が第二次世界大戦のときの旧敵国」であったからであり、第二に「日本製と知ったらB級-粗悪品-と思うだろうし、(略)安く買い叩かれる恐れがある」からだったと言う(10)。

放送されるアニメーション番組の中の描写に対して、ある種の文化的コード――何が視聴者に受け入れられ、何が受け入られないか――が適用され、例えば暴力描写などが消されるのは、現在でもしばしば行われることである。それに加えて当時は、作品のオリジンである「手塚」や「日本」そのものが消され、むしろ「アメリカ産」として受け入れられることが望まれていた。NBC側は「リミテッド・アニメーションだからきっと国産のハンナ・バーバラ製だと思ってくれるんじゃないか」とすら述べている。(筆者駐:ハンナ・バーバラ・プロダクションはアメリカのアニメーション・スタジオ。現在はワーナー・ブラザーズ・アニメーションに吸収合併。)

結果として『アストロ・ボーイ』が、今でも一部のアメリカの人々にノスタルジックな愛情を持って思い出されるほど人気があったとしても、『アストロ・ボーイ』の作者として手塚治虫や日本という国が当時の視聴者に強く意識されることはなかった。その後、手塚によるアニメが何本かアメリカで放映され、特に『ジャングル大帝』、英名『キンバ・ザ・ホワイトライオン(Kimba the White Lion)』は人気を得たが、NBCは『アストロ・ボーイ』同様に、その作者や製作された国を積極的に示すつもりはなかった(11)。

—–
1. 「東京アニメ・マンガ カーニバル in としま2014」https://www.city.toshima.lg.jp/kanko/kankoevent/033908.html
2. 「世界へ広がる手塚治虫 -手塚治虫の元マネージャー 松谷孝征氏を招いて-」https://www.city.toshima.lg.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/033/908/talkevent.pdf
3. 「日本マンガの海外出版状況調査-手塚治虫・の海外出版リスト」 http://mediag.jp/project/project/list.html
4. 日本における「手塚神話」の形成については、学習院大学教授でマンガコラムニストの夏目房之介氏のブログに掲載されている手塚に関する講義のレジメが、概要を知るには簡潔でわかり易い。(残念ながら筆者はこの講義に参加していない。)
早稲田EX連続講義「手塚治虫の世界」第1回「手塚治虫をめぐる現在の課題」
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2014/09/ex-40b5.html
夏目房之介の「で?」2014年9月10日
5.  Schodt, L.Fredrik, The Astro Boy Essays: Osamu Tezuka, Mighty Atom, Manga/Anime Revolution, California, Stone Bridge Press, 2007. viii p.
6. Ruh, Brian, “Early Japanese Animation in the United States: Changing Tetsuwan Atom to Astro Boy,” 214p. (Mark I. West ed. The Japanification of Children’s Popular Culture: From Godzilla to Miyazaki, The Scarecrow Press Inc., Maryland, 2009)
7. 手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川書店、200年、247p. 大和書房(1979年)改訂版
8. デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』1巻、231p. 新潮OH!文庫、2002年
9. 手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川書店、200年、255p.(底本:大和書房、1979年)
10. フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ『アニメがANIMEになるまで』久美薫訳、26 p. NTT出版、2010年。(Ladd, Fred & Harvey Deneroff, “Astro Boy and Anime Come to the America: An Insider’s View of the Birth of a Pop Culture Phenomenon,” McFarland, 2009)
11. 『アニメがANIMEになるまで』71p.