北米のマンガ事情 第23回 「マンガの翻訳について考える」 前編

文化輸出品としてのマンガ-北米のマンガ事情 第23回
「マンガの翻訳について考える」‐前編‐

椎名 ゆかり
アメリカの大学院でポピュラー・カルチャーを学び帰国後、マンガを専門とする出版エージェント業やアニメ、マンガ関連の翻訳者他、海外マンガを紹介する様々な仕事を行ってきた。
翻訳マンガ:『ファン・ホーム』『メガトーキョー』他
ブログ:「英語で!アニメ・マンガ」 http://d.hatena.ne.jp/ceena/

 

無題筆者は今までマンガに関して様々な形で翻訳の仕事に携わってきた。現在は主にアメリカのマンガを英語から日本語へ翻訳する翻訳者の仕事を行い、時には日本マンガを日本語から英語にする翻訳のお手伝いをすることもある。筆者より経験豊富な翻訳者の方々がたくさんいる中で僭越な気もするが、今回のコラムではマンガの翻訳について現在考えているところを書いてみたい。

<翻訳の重要性のわかりにくさ>

マンガに限らず言葉を伴ういかなる文化輸出品にとって、ひとつの言語を別の言語に変換する翻訳は大変重要な現地化のひとつである。小説などと違って言葉への依存度が低いように思われるマンガにおいてもそれは変わらない。

しかし、翻訳の重要性が明らかだとしても、なかなかその重要性が読者に意識されることは少ない。それは翻訳が良いものであっても(むしろ、しばしば良いものであればあるほど)、一部の例外を除いて翻訳の存在そのものが意識されないという翻訳の本質にある。

筆者は今年の2月、マンガ翻訳コンテストのシンポジウムでモデレーターをやらせていただいた。主要マンガ出版社と関連会社42社からなるデジタルコミック協議会が主催、文化庁が協力するマンガ翻訳コンテスト「Manga Translation Battle 2013」(1)のシンポジウムである。2度目の開催となる今回のコンテストでは前回を上回る応募数があり、高いレベルでマンガ翻訳の質が競われた。
その翻訳コンテストの審査員をつとめたウィリアム・フラナガン氏がシンポジウム冒頭のコンテスト授賞式で「(自分は)翻訳者として読者にとって透明な存在であろうとしている」という主旨の発言をされている。

この意見に異論を唱える翻訳者もいるだろうし、場合によっては読者がそれを求めない場合もある。例えば村上春樹氏の手による翻訳書に、村上氏独特の文体を期待して読む読者はたくさんいる。

しかし、フラナガン氏の意見に同意する翻訳者も多くいると思われる。筆者もそのひとりだ。基本的に作品は作者のものであり、翻訳者は翻訳という形で、その作品を別の言語圏の読者に届けるお手伝いをする立場だ。なるべく“透明”な存在に徹して、可能な限りオリジナルに近い形で読者に届けること、そしてその結果読者が翻訳だと意識せずに作品を読めることが翻訳者の目標となり、この目標に適う最上の翻訳が目指される。

しかし、翻訳の難しいところは、たとえ上記のような目標を共有していたとしても、良い翻訳が人によって違うところにある。それが翻訳者の間で度々言われる「翻訳に正解はない」という意味だ。
翻訳とは、そもそも一つの単語を機械的に別の単語に置き換える作業ではない。その作品の作られた社会的・文化的な背景に照らして作品を理解した上で、それぞれの文章の意味を汲み、解釈する作業が必要とされる。

翻訳後の言語(日本マンガの英訳なら英語、アメリカのマンガの邦訳なら日本語)の文章の質が標準以上であることや誤訳が無いことは最低限必要だとしても、ある一つの言葉の意味をどう解釈するかは、人によってかなり違うのも事実である。同じ日本人どうしが日本語で話していても、言葉の解釈が人それぞれなのはよくあることだ。それが別の言語で解釈するとなれば尚更である。
しかも、そこには翻訳者自身の言葉の言い回しの好みも自ずと反映される。作品の作者の意図に沿うために作者自身に言葉の真意やその解釈について質問できる機会に恵まれる場合もあるだろうが、そのような機会は特にマンガではそれほど多いわけではない。

つまり、上で述べたような「可能な限りオリジナルに近い形で」という時の「オリジナル」とは、実際は「翻訳者それぞれが解釈するところのオリジナル」であり、従って「オリジナルに近い形」というのも翻訳者によって変わるのである。

逆にだからこそ、翻訳者は作者の意図、作品の意図にできる限り寄り添おうと最大限に努力し、絶対の正解はなくともそれに限りなく近づくべく努力をすべきであり、そうして初めて良い翻訳ができると筆者は考えている。

<輸出=作品の文化的文脈からの切り離し>

あらゆるマンガ作品にはその制作の背景となる文化的文脈が存在し、実際に読者は作品を読む時その文化的文脈ごと作品を読み、理解している。例えば、「海外マンガ」「日本マンガ」などのように、制作された場所によって作品を分けるのも、その文脈の一部に読者が意識的であることの表れだ。

日本のマンガ作品は日本の大衆文化の文脈で制作され、多くの場合、対象は日本の読者である。海外では必ずしも作家が自国の読者向けだけに作品を作るのは当然でない場合もあるが、国内の市場が十分に大きい日本では、海外の読者を想定している作者はそれほど多くない。つまり、日本ではマンガ読者の側に日本の大衆文化全般に対しての知識があることが前提とされて作品が作られる。

日本マンガが海外に輸出されるということは、日本文化の知識を持つ読者を想定して作られた作品が、日本文化の知識を持たない読者に読まれることを意味する。その時、その読書体験が、日本の読者の読書体験と異なるのは当然だが、その違いをなるべく減らしたい、もしくは、違いがあっても意味あるものにしたいと考える時、翻訳の重要性は一段と増す。

ちなみに、海外の日本マンガ読者、特に熱心な読者が好むのが、「翻訳の注釈」(translation note等と呼ばれる)だ。翻訳でこぼれ落ちてしまう情報を補足したり、わかりづらい事象の説明を入れたりする「注釈」は、文化的情報を補完する役割を果たしている。そして読者の作品への理解を助けているのである。

もともと自国内で読まれることを前提にして作られた日本のマンガ作品の中には、日本文化に固有で他文化では理解されにくい、翻訳者泣かせの事柄がたくさん存在する。そういう個々の文化的要素もマンガの面白さに大きく貢献しているが、他の文化圏に輸出する際は現地の価値観を考慮して、その部分を削除したり変更したりする必要に迫られることもある。(日本マンガがアメリカで出版される際の様々な変更については、以前当コラムでとりあげたので参照いただきたい。「北米のマンガ事情第11回 現地化に伴う変更・編集について考える」(2) )
たとえ、削除・変更は必要とされないまでも、直訳では理解不可能と思われるために、翻訳上の工夫が必要となる場合もある。日本固有の伝統文化や食文化などに加えて、他には日本で話題になった事件や、流行語の訳し方も難しい。

先に述べたマンガ翻訳コンテストのシンポジウムで出た翻訳例を、ここでいくつか挙げてみたい。『恋とは呼べない』(原作・榎田尤利、画・町屋はとこ)を翻訳して大賞を受賞したサラ・キム・ペリー氏は、翻訳に苦労した例として、主人公の働く会社の職場でのシーンの会話を挙げた。「上司と部下の上下関係を含む、日本の会社に独特の雰囲気」を翻訳に反映させるのが難しいからだと言う。

コンテスト審査員の翻訳者マット・アルト氏が挙げた例は、ホラー・マンガの『不安の種』(中山昌亮)に登場する、何体もの人形が暗闇に浮かぶ場面である。アルト氏曰く、西洋では人形が並んでいても怖いと感じる人は少ないという。日本にはモノに魂が宿るアニミズム的感覚を持つ人が多いため怖いと感じる人が多いのではないか、とアルト氏は分析されていたが、このシーンの不気味な雰囲気を出すためには、翻訳にも工夫が必要だということであった。

この他にも、日本マンガに頻繁に出てくるオノマトペ(効果音)も翻訳が難しい。静まりかえった様子を表す「シーン」などの“無音の効果音”も日本のマンガに特徴的で、翻訳者泣かせの例のひとつである。

更にコンテストの受賞者の良い訳としてアルト氏が挙げたのが、4コママンガ『あっちこっち』(異識)に出てくる作者の造語、「間接キス」を表す「間ちゅー(笑)」という言葉だ。作者の造語という難しさに加え、アルト氏曰く、そもそも欧米には「間接キス」という概念は無い。翻訳コンテストの受賞者で同作を訳したニーナ・マツモト氏は「間接の」の「indirect」、「(ブチュっと音のしそうな)キス」の「smooch」に「(笑)」を意味するネット用語「lol」をつけた「indirect smooch (lol)」と訳して、オリジナルのニュアンスを上手く伝えていた、ということだ。

(1) “Manga Translation Battle” Tokyo Otaku Mode
https://otakumode.com/sp/mtb_second
(2) http://www.animeanime.biz/archives/13647

後編に続く