特殊映像ラボラトリー第33回 「監督=プロデューサー アニメ会社は 流通革新を起こすか?」
■ 配給会社が果たすべき機能とは、
製作サイドの納得する興行成果を上げることである
そもそも配給会社の果たすべき機能とは何だろうか?配給当事者たちは「製作サイドの希望に従って、万全のブッキング体制を敷き、宣伝にも力を尽くし、興行後のアフターフォロー、集金活動を行うこと」と言うだろう。しかし筆者に言わせれば、配給会社の最も果たすべき義務とは「製作サイドが納得する興行成果をあげること」に他ならない。即ち映画をヒットさせることだ。
時々「我々は努力して営業・宣伝活動を行ったが、残念ながら映画はヒットしなかった」との弁を耳にするが、それでは配給会社としての義務を全うし全うしたことにはならない。ヒットが見込めないと思えば、配給しなければ良いだけだ。なぜ皆が東宝に配給を任せたがるかと言えば、他社に委ねるよりもヒットする確率が高いからである。簡単な話だ。
また配給に必要なP&A(プリント・アンド・アドバタイジング)費用を、製作委員会が負担するというやり方も納得がいかない。自分たちが配給すると判断した作品を展開する上で必要な費用を製作サイドに負わせることはおかしい。映画配給のプロたちが、ヒットの可能性アリと見込んで配給を決めたのならば、そのぐらいのリスクを負って当然ではないか(このP&A製作側負担については、東宝のみ立て替えで、事後精算という手段をとっている)。
■ プロデューサーを育成してこなかった“負”の蓄積
4人の関係者から筆者に送られたメールにも、「配給会社やタレント事務所と渡り合え、宣伝にも口を出せるノウハウを持ったプロデューサーの存在は必須」との意見があり、本来プロデューサーとはコンテンツを作ることと、そのコンテンツを商業的に成功させることが使命であることが、改めてうかがえる。
これまでは、その「商業的成功」が、配給会社の方法論だけに依存していた。しかもその費用は製作サイド負担で。こうしたことがまかり通ってきたのも、プロデューサーが作品の商業的責任を自覚し、行動してこなかった、その“負”の蓄積と言えるだろう。その結果、本来興行と製作の間に立って、双方の意見や主張を調整するはずの「配給」というポジションの立場、発言権を過剰に強めてしまった。
だがしかし、現状はこの連載の30「初の自主配給に乗りだすプロダクションI.G.」でのインタヴューで、(株)ティ・ジョイの紀伊さんが指摘したように、「配給というファンクションの機能の意味を切り刻んでいったら、実は何もなかったりする」というのが事実ではないだろうか。
■ 監督とプロデューサーが設立した会社でこそ可能になること
では監督とプロデューサーが組むアニメ会社が、これまで出来なかったことを可能にする。それはどんなことだろうか?
まず同一社内に作品作りのリーダーと商品展開のリーダーが共存することで、意思決定のスピードが速くなる。製作サイドのメッセージ性に統一感が出る。これは先のメールでも「『製作者の思い』『監督の意図』をストレートにお客様に届けることが出来る」と、某氏が指摘。さらに製作会社が配給(特に宣伝)面でのイニシアティヴをとることになれば、作品のファンと直接ふれ合うことが可能となり、そこから得た感触を、次回作に反映させることが出来る。つまり顧客のニーズを直接知ることが出来るというわけだ。
配給・興行レベルにおいても、デジタル・ツールを活用し、配給経費や宣伝費の減額が可能となる。この場合、障害になるのは従来のビジネスモデルで権益を得ている業者だが、創作面とビジネス面のリーダーが手を組み、イニシアティヴをとることで、これまで見過ごされてきた無駄を排除すること出来るものと考える。
いかに優れた映画館、興行網を所有していても、そこで上映する映画がなければ、それらは無用の長物だ。同様に、いかに優れた配給能力=ブッキング力、宣伝力を持っていても、作り手たちが作品を作らなければ、これまた宝の持ち腐れ。「製作」なくして「配給」も「興行」も「二次使用」も成立しないのだ。その「製作」面での二本柱である監督とプロデューサーがタッグを組み、企業として経済的リスクとも向き合い、多くの問題に立ち向かう姿は気高く雄々しい。そんな彼らの大いなる挑戦に、心からエールを送ろう。

